あの頃の大原麗子さん(3) 渡瀬恒彦氏とギラン・バレー

1973年9月、渡瀬恒彦氏と結婚した大原さん。翌74年のNHK大河ドラマ「勝海舟」ではヒロイン「お久」を演じ、国民的女優への第一歩を踏み出しました。順風満帆、幸せに見えたこの時期ですが、実際、彼女の生活はどのようなものだったのでしょうか?

大原さんについて書かれた著書「炎のように」。その中に、この時期の記述があります。しかし、この本がとても残念なのは、大原さんのスクラップブックからの抜粋と、実弟・大原政光氏の断片的な記憶をこの本の著者がドラマチックなストーリーに仕立てようとしているため、内容が浅く、時系列もよくわからないことです。多くの大原麗子ファンが求めているものは、この著者の目を通して描いたワイドショーのような話ではないと思うのですが... よって、この本の純粋に事実と思われる部分と他の情報を元に、この時期の大原さんの姿を再構成して描いてみました。

下の表は、大原さんが渡瀬氏と結婚していた73年から78年までの出演作をまとめたものです。さらに、その下に渡瀬氏のものを重ねると状況がよく見えてきます。

出典:ドラマデータベース、日本映画データベース
サントリーレッドCMの放映開始時期は推定

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73年9月4日、大原さん26才、渡瀬恒彦氏と結婚。世田谷区成城に新居をかまえ、渡瀬氏の母(姑)と3人の生活を開始。お姑さんは厳しい人で、家事などできなかった大原さんに一から教え込もうとしたようです。大原さんも新婚当初は、浅丘ルリ子さんに料理を習ったりして、気丈に嫁を努めようとしました。けなげと言うか、生真面目な彼女の側面が出ています。この頃、「雑居時代」では栗山家の「お勝手を仕切っていた」彼女ですが、家へ帰ると、このお姑さんに厳しく仕込まれていたわけです。
 
74年、27才、NHK大河ドラマ「勝海舟」にヒロイン役で出演、女優としての格も上がります。仕事は1年ぐらい先まで、ぎっしりと埋まってました。一方、渡瀬氏はというと、この頃、東映の任侠映画に数多く出演し、その撮影は京都で行われていました。渡瀬氏は翌75年にも同じく東映京都で撮影されたドラマ「影同心」に出演していますから、結婚直後から京都に行きっぱなしだったと思われます。残された大原さんとお姑さんの二人の生活は、かなり気詰まりなものだったことは想像に難くありません。

こうして京都での仕事が続き、また嫁姑関係への配慮でしょうか、そのうち渡瀬氏は京都に家を持ち、お姑さんも呼び寄せます。時期はおそらく75年からでしょう、これ以降、渡瀬氏との別居生活が始まります。これには、大原さんもかなり落ち込んでいたと、大原政光氏は証言しています。女性週刊誌などで離婚説が浮上したのはこの頃です。渡瀬氏の女性問題、収入のアンバランス、嫁姑関係などと書き立てられました。
  
そんな中、75年8月、大原さん28才、手足の筋肉が動かなくなる難病、ギラン・バレー症候群を発症。これにより連続ドラマ2つ、「新・坊っちゃん」と「冬の陽」を降板し、その後、約7ヶ月の闘病生活を送ることになります。大原さんのスクラップブックに、このあたりの闘病生活の手記が残されており、そこには、渡瀬氏が病院に付き添ったり、看病したりしていたことが書かれています。渡瀬氏のこの期間の出演作は全て京都で撮影されていることを考えると、撮影の合間をぬって頻繁に東京に戻り、大原さんを支えたということになります。

大原さんが残したギラン・バレー闘病の手記、その行間から読み取れるものは、渡瀬氏と過ごす時間を大切に思う彼女の気持ちです。それは、闘病の辛さよりも、遠ざかりかけていた渡瀬氏がギラン・バレーによって自分の所に戻ってきてくれ、一緒に過ごせた貴重な時間を記録しているようにも感じられます。

翌76年2月27日、リハビリを無事終えた大原さんはドラマ「絣(かすり)の花」の制作発表会見に、艶やかな着物姿で登場します。その時の大原さんのコメント -

「今回、主人がしょっちゅう見舞いに来てくれて。お互い忙しくて、なかなか話す暇がなかったんですけど、不幸中の幸いというか、十分に話しあえました」

公な場での発言ですから、硬い表現になっていますが、全てを物語っています。そして、渡瀬氏と過ごせた時間を嬉しく思う彼女の純粋な気持ちが読み取れます。

しかし、このギラン・バレーによって、修復されかけていた仲も長続きしません。大原さんが復帰した後は、以前のような状態に逆戻りしたことが想像できます。大原さんは女優を続け、更なる飛躍を目指し、一方、渡瀬氏は大原さんが子供を産み、家庭に入ることを希望しました。渡瀬氏を愛しながらも、崩れていく関係。そこには、女優を続ける事と結婚生活を両立できずに苦悩する彼女が見えてきます。ちょうど、「気まぐれ天使」で「ターコ」を演じていた頃の大原さんはそんな生活を送っていたと思われます。

二人の生き方の違い、目指すものの違い、その隙間はどうにも埋まらなかった。そして、大原さんと渡瀬氏が最後に出した答えが離婚だったということでしょう。

* * *

渡瀬恒彦氏とギラン・バレー、この2つを抜きにして大原さんを語ることはできません。晩年、世田谷、岡本の自宅で一人で過ごす大原さんの心に浮かんできたもの。それは渡瀬氏と過ごした日々の想い出だったに違いありません。女優の道を駆け登った日々。渡瀬氏を愛しながらも、崩れていく関係に葛藤、そして、渡瀬氏が優しく支えてくれ、ギラン・バレーと闘った日々。激しさ、辛さ、優しさが一緒になったあの頃の想い出は、一生、大原さんの心に深く、静かに横たわっていたのです。

可愛く、強く、情熱的、そして生真面目で一途。素の大原さんは夏代さんのイメージと、どこか重なります。一つ違いがあるとしたら、現実の大原さんはその後、女優の道を選び、身を削る日々を送ったということです。夏代さんのように十一と結婚し、喧嘩しながらも幸せな家庭を築くという人生。大原さんをもう一度「栗山夏代」に引き戻したい。馬鹿な妄想でしょうか?

(続く)




補足

サントリーレッドCMの開始時期はウィキペディアと「炎のように」によると1977年、一方、DVD「スタイル・オブ・市川崑」の解説によると、1980年からとなっています。

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