あの頃の大原麗子さん(22)どん底を経験する

ルンバールって知ってる? おしりの少し上あたりの背骨の間に針をブスッと深く刺して、髄液を抜くのね。透明な液が針から吸い上げられてゆっくり採血管に溜まっていき、いっぱいになったら管を交換して...3本ぐらい採られたかしら。お医者さんや看護婦さんの手前、大丈夫です、みたいな顔してたけれど、内心は恐怖で泣きそうだった。

それから、先生は私のあちこちの筋肉に5−6センチの針を刺して、「はい、ゆっくり足に力を入れてください」と指示。針はメーターにつながっていて筋電図が記録される仕組み。力を入れているつもりでも、私の筋肉は十分に反応していなかったみたい。その割に針の痛さだけが伝わってきて、思わず涙がボロボロと溢れた。でも、じっと声は出さずにいた。後で看護婦さんが「男の人でも泣きます。オシッコもらす人だっています」って褒めてくれた。

あの頃、私の仕事のスケジュールは1年以上先まで埋められていた。2本のドラマは泣く泣く降板したけれど、その後の仕事に穴は開けられない。もし、このまま寝たきりになったらどうしようなんて、悪いことばかり考える日々が続いた。「あせらないで。必ず治りますから」との先生の言葉にどれだけ励まされたことか。

そんなギランバレー症候群の検査やら治療、そしてリハビリが半年続いた。その時、私を支えてくれた恒彦さん、お母さん、先生や看護婦の皆さんには感謝してもしきれない。そして、この東大病院に入院できたのは、道彦(渡哲也)さんのツテ。今でも、おにいさまのおかげで私は救われたと思っている。

入院した頃は、なぜ私がこんな目に会わなければならないの、と腹立たしさと悔しさで、恒彦さんや周りのみんなに八つ当たりしてしまったけれど、時間が経つにつれ、それまでの自分の未熟さを思い知らされた。私はどれだけ人に感謝したことがあっただろうか?この病気をして私は初めて感謝という言葉の意味を知った。

その後、この病気とは一生付き合うことになったのだけど、今になってみると、この病気をした事は女優という仕事にとってもいい経験だったと思うのね。感謝することを通して、人の気持ちの機微を学んだ気がするし、自分を見つめ直す時間が十分にできて、普通なにげなく見すごしてしまうことなんか、気がついたりすることがたくさんあった。人や物事を観察するっていうことが演技の基本。そんな当たり前の事を、あのとき身を持って悟った。

後の世で、大原麗子の出演作をすべて録画して細かに見比べるファンがいたとしたら(そんな人いるかしら)、この病気の前と後の私の演技の違いに気付くはず、きっと。人生のどん底を経験した女優の芝居はひと味もふた味も違うってね。

2009年8月3日、大原麗子さん永眠。合掌。 


ドラマ『気まぐれ天使』(NTV, 1976)、第13話より。 

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麗子さんは復帰した1976年には、『気まぐれ天使』に出演しています。人生が順風満帆で、幸福だった頃の彼女が演じたのが、『雑居時代』の夏代さん。一方、ギランバレー症候群からの復帰直後で演じたのが、『気まぐれ天使』のターコ。このドラマでの彼女は人としての深みというか、女優として一回りも二回りも大きくなって帰ってきたというのが筆者の感想です。(体重も8キロほど増えてしまったそうですが)

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これはフィクションです(筆者)。


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