あの頃の大原麗子さん(21)冬の陽

人の不幸は、突然に、そして何気なく起こる。

あの人が癌に罹ってしまった、この人が交通事故で亡くなられたっていう話をよく聞くから、自分にもそんな災がいつ来るかわからない、気をつけなくちゃって思うけど、でも、一方で、あの頃のわたしは、何故か自分は大丈夫って考えていたのね。今思うと変な話だけど、たとえ飛行機が落っこちても、自分は助かるっていう自信があったぐらい。

ある朝、目が覚めると、10万人に1人という難病に侵されていた....そんな悲劇が自分の身に起きていたとはとても信じられなかった。

恒彦さんはドラマの撮影(注1)でずっと京都に行きっぱなし。あの時は、ようやく夏休みを貰えてこちらに帰って来ていた。久しぶりに恒彦さんの運転で、熱海、伊豆に遊びに行って楽しかった。でも、翌朝、目が覚めると、足の裏がにぶいような、しびれたような感じで、それがだんだんひどくなって、夜も眠れなくなってしまった。

すぐに恒彦さんが車で近くの病院(注2)に連れて行ってくれた。レントゲンを撮ったりしてもらったんだけど、結局、原因がよくわからず、入院してビタミンやらブドウ糖の点滴。

倉本先生も脚本を担当したドラマ『冬の陽』の北海道ロケがもうすぐ始まる。わたしはどんなに辛い時でも何とかしてきた。こんな事に負けられない、這ってでも北海道に行ってやる。早く治って!と心の中で叫んでいた。

まだあの時は過労か何かだと思って、お医者さんや恒彦さんらの反対を押し切り、マネージャーさん達に抱きかかえられ、車椅子を携えて北海道行きの飛行機に乗った。一足先に着いていらした倉本先生や撮影スタッフの皆さんには、「大丈夫、なんとかできそうです」と言って、乗馬シーンのテストを強行していただいた。でも、思うように身体が動かず、全く撮影なんかできる状態ではなかったのね。

東大病院で検査を受け、ギランバレー症候群という難病だと判明したのはその翌週だった。28歳のわたしにとって、難病という言葉はものすごくショッキングな響きだったけど、それよりも何も、ドラマを降板して穴を開けてしまった事の方が深刻に思えて、倉本先生や関係者の皆さんにご迷惑をおかけしたという悔しさで胸が詰まった。そして、止めどもない涙が溢れてきて、そんな状況が起きてしまったという事実をしばらくの間受け入れることができなかった。

2009年8月3日、大原麗子さん永眠。合掌。

ドラマ『冬の陽』(YTV, 1975)撮影風景。
左から、中村敦夫(たぶん)、大原麗子、中山真理、石立鉄男(敬称略)。
その後、代役には金沢碧さんが起用された。

石立鉄男さんの表情が現場の様子を物語っていますね。『雑居』ファンには、まるでこんな会話が聞こえてくるようです。

夏代 「大丈夫よ、ほら、乗れたでしょ」
十一 「ちぇ、危なかっしくって見てられねーや。やめろって言ってもやめない。なんて強情な女なんだ」
夏代 「そこがあたしの取柄なの。なんの、これしき」
十一 「頼むからやめてくれよ。ね、ね、あねごが強いのはわかったからさ」

***

注1)当時、渡瀬恒彦さんが出演していたドラマとは『影同心』(MBS、東映、1975)。

注2)麗子さんのスクラップブックには「井上病院」と書いてあるとのこと。世田谷区桜丘、環状八号線沿いにある「世田谷井上病院」のことだと思われます。

これはフィクションです(筆者)。

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