パパと呼ばないで ロケ地の楽しみ(5) 佃・月島・勝どき その5

下の写真は第16話から。隅田川に架る勝鬨橋です。第二次世界大戦前の1940年に開通しました。それ以前は渡船(とせん)と呼んでいた渡しでしか月島へ行くすべはなく、まさに月島は島だったわけです(注1)。「勝鬨の渡し」と「月島の渡し」は、勝鬨橋の開通で廃止され、その後、1964年の佃大橋の開通により「佃の渡し」が廃止されました。

月島出身の古老「勝鬨橋ができたときは嬉しかったね。開通式のことは今でも覚えてるよ。『親子三代渡り初め』って言ってね、月島側から紋付袴で地元の爺さんと息子と孫、3人がゆっくり橋を歩いて渡ったのを見ましたよ」

『親子三代渡り初め』とは橋の開通式に昔からよく行われているセレモニーとのこと。橋が三世代にも渡り長持ちするように縁起を担ぐのだとか。


2018年5月4日、撮影。

先日撮った写真です。最初、このカットは佃大橋から撮影したものかと思いましたが、現地に行ってみると全く違っていたので、同じアングルを求めて歩いているうちに明石町側のかなり勝鬨橋に近い辺りに辿り着きました。ちょうど、明石町区民会館の辺りです。

今でこそ、この隅田川べりの両岸はきれいに整備され、公園もできて、近くのタワーマンションに住んでいる親子連れや築地界隈から流れてきた外国人観光客が散歩する場所になっていますが、かつては、この両岸には多くの水上生活者の船が停泊していました。

水上生活者とは陸に住まいを持たず、船の上で生活している人たちです。その船の多くは「だるま船」や「ポンポン船」と呼ばれる貨物輸送用のもので、隅田川周辺の物流を担っていました。1950年代には、隅田川には約1000隻ほどの水上生活者の船がいたと言われています。

明石町区民会館の辺りは、かつて水上生活者たちの船の溜り場となっていた場所で、区民会館も昔は水上生活者たちの福利厚生施設いわゆる「水上会館」でした。月島出身の古老「あの辺りには『だるま船』がいっぱい居たね。おまけに河川敷には、戦争で家を失った人たちが無許可で住み始めてね。住民登録していないから、子どもたちは学校にも行けなかったね」

60年代後半から陸の物流が整備され、隅田川の水上生活者の船は激減しましたが、70年代になっても、ちょっと支流に入るとあちらこちらに、まだ彼らの船が停泊しているのが見られました。以前このブログで紹介した「路地」と並び、水上生活者の船はこの地域の歴史と言ってもいいものです。

このドラマでも水上生活者が登場しています。下の写真は第18話のオープニングから。千春が水上生活者の子供たちと知り合うシーンです。ロケ地は門前仲町の臨海公園の辺りでしょう。

路地やだるま船を登場させ、地元のリアルな空気感をふんだんに映像に入れるあたりにもこだわりを感じます。また、どの回だったか、清澄通りを「電車通り」と呼ぶ台詞が使われたときには「こんな、地元しか使わない呼び方、よく調べたなー」なんて、少なからず驚きました。私は「電車通り」の正式名称が「清澄通り」だと知ったのは、かなり大きくなってからだったと記憶しています。たぶん、 脚本家か制作スタッフにこの地域出身の方がいるのではないかと推測しています。

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ロケ地の写真を掲載します。

第7話、たい焼きを持ちながら駆けてくる園子。

佃1丁目9−3。2018年5月4日、撮影。

第7話、チェリー美容室前。

佃2丁目13−7、2018年5月4日、撮影。

同じく、チェリー美容室前。

佃2丁目13−7、2018年5月4日、撮影。


第9話、園子と和子。

住吉神社裏、2018年5月4日、撮影。

第9話、自転車に乗る治子

佃3丁目11付近、2018年5月4日、撮影。

第10話、新生不動産へ向かう精太郎。

佃2丁目4−8、2018年5月4日、撮影。

第10話、園子と和子。

佃3丁目9−1、2018年5月4日、撮影。当時の理髪店は健在!

第10話、千春と園子。

佃3丁目5−6、2018年5月4日、撮影。



(注1)古老の話によると勝鬨橋開通以前に既に深川方面から豊洲運河に架かる橋があり(相生橋は後に架け替えられたもの)、市電が月島まで開通していたとのこと。全くの孤島というわけではないが利便性は悪く、地元では実質孤島と感じている人が多かったようです。

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