パパと呼ばないで ロケ地の楽しみ(2) 佃・月島・勝どき その2

第2話。夜、ブランコに乗る右京と千春。
右京「なあ、チー坊、ママが居たらなー、と思うか?」
千春「うん」
右京「パパじゃどうだ」
驚いたように右京を見る千春。
右京「あのなー、おじちゃんをパパって呼んでいいぞ」
うつむく千春、何も話さず、ブランコから離れジャングルジムへ。
後を追う右京、照れながら「そりゃまあ、急に呼べったってそりゃ無理だよな。なーに、どっちだって構わないんだ、オレは。おじちゃんね、どーも、この、オッチョコチョイでいけねーな。はは、はは...さあ、帰ろうか、湯冷めすっから」
振り返り、公園の出口に向かう右京。
その時、
千春「待ってよ、パパー」
右京「えっ?.....(嬉しそうに)もーいっぺん言ってみな」
千春「はい、パパ!」

チー坊が右京を初めて「パパ」と呼んだこのシーン、ちょっと目頭が熱くなる名場面です。下の写真は、偶然、このふたりのやりとりを見ていた治子と金造。背後の柱と階段は、おそらく佃大橋のものでしょう。佃大橋には階段が4箇所ありますが、柱と階段がこの位置関係で見えるは、佃から隅田川を渡った反対側、明石町、聖路加病院近くのものです。ちょうど、真ん前に明石児童公園があり、右京と千春がいたのはこの公園です。


中央区明石町6番、明石児童公園前、2018年2月18日、撮影。

佃・月島一帯は、第2次世界大戦時の空襲から免れ、ほぼ無傷で戦前の街並みを残すことができました。米軍が聖路加病院がある明石町への爆撃を避けたため、飛行ルートとなる佃・月島も助かったという話が、当時庶民の間で広まっていたそうです。

佃大橋ができたのは1964年。私が幼少期、月島に住んでいた時には、まだ、この橋はありませんでした。当時、隅田川を渡るには勝鬨橋の上を走る都電か、ポンポン船の「佃の渡し」を利用していたように思います。そして、勝鬨橋は大型の船が通るときは中央部分をはね上げていました。今では見られない風景です。

月島出身の古老の話...「昔はね、家が月島っていうと、バカにされてね。『島の子』なんて言われたよ」 月島は銀座の目と鼻の先にありますが、1940年に勝鬨橋が開通するまでは渡し船でしか行くことができない孤島だったわけです。今風に言えば、ガラパゴス化した地域で、昔の雰囲気がいつまでも残っていました。

私の記憶にある月島の匂い。当時は電気釜やガス釜はまだ普及しておらず、お米を炊くには、どの家もカマドを使っていました。朝、長屋の路地には、カマドで薪や、木くず、紙くずを燃やす匂いと、お米を炊く湯気の香りが漂っていました。また、大方どの家でも、朝は、仏様に水と、ちょこっとしたご飯を供え、お線香を燃やしていたように思います。

当時は、隅田川べりには魚貝類の倉庫がいくつも並んでいて、そこから魚の生臭さがこの辺り一帯に広がっていました。このドラマに写る木造の長屋や狭い路地を見ると、隅田川の潮の匂い、魚の匂い、カマドで米を炊く匂い、それに線香の匂いなどがミックスされた、佃・月島独特な匂いの記憶が蘇ります。

***

同じく、第2話のロケ地写真を掲載します。右京が幼稚園の先生、大町宏子とばったり会い、千春が秀男を突き飛ばしたわけを知るシーン。ロケ地は、佃3丁目11番辺り。背後の段差は今でも、健在。


2018年3月11日、撮影。

その後、銭湯帰りの時枝と千春に出会う右京。ロケ地は、佃3丁目4−7。お米屋さんと同じ通りにある豆腐屋の前。当時の建物は今でも健在ですが、豆腐屋は廃業した様子。


千春が初めてパパと呼んだ、明石児童公園は第5話にも登場します。ラスト、右京が千春を探し回るシーンです。



2018年2月18日、撮影。今では、ブランコなどの遊具は撤去されています。

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