あの頃の大原麗子さん(8) ギラン・バレー再発という爆弾


大原麗子さんの女優人生の分岐点は1973年の『雑居時代』、栗山夏代役と、その直後に出演した1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』、お久役である。そのような持論を以前このブログで述べました。その後、彼女の年譜を作成していて、おやっ?と思ったのですが、彼女の女優人生において、実はもっと大きな分岐点があったことに気づかされました - 翌1975年、難病、ギラン・バレー症候群による、ドラマの途中降板と半年以上にもおよぶ闘病生活です。

ギラン・バレーについてのエピソードは、『炎のように』や、特集番組でたびたび紹介されたので、「大原麗子」と聞けば、「ギラン・バレー」と今では多くの人が思い浮かぶようになりました。「ギラン・バレーが、彼女にとって大きかったって?何を今さら、当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、この病気の発症は、想像した以上に、その後の彼女の出演方針にも、大きな影響を与えたのだと考えるようになりました。

年譜から見えるもの、

ギラン・バレー前
2クールや1年ものドラマがほとんど。3、4本のかけ持ちはあたりまえ。
主演作品は殆ど無い。

ギラン・バレー後
1クールや単発ものドラマが殆ど。原則、かけ持ちをしない。
ほぼ全てが主演作品。

闘病生活の時期を境にして、見事なまでに、出演傾向が変わっています。確かに、70年代後半あたりから、ドラマは1クールものが多くなっていきました。しかし、そういった要素を考慮しても、この見事なまでの違いは、彼女や事務所が意図的にそうしない限り、起こりそうもないと思われます。

そのようにせざるを得なかった理由 - それは、まさしく、ギラン・バレーがいつ再発するかもしれないという爆弾を抱えているからに他なりません。半年、1年と長期になるほど、再発により途中降板となるリスクは、大きくなります。影響の大きさを考えれば、やはり、拘束期間が短いものへの出演となるでしょう。

そして、その傾向を後押ししているのが、「主演の重さ」だと言えるでしょう。奇しくも、このギラン・バレーの時期を境にして、彼女が出演するもののほとんど全ては、彼女が主演の作品となりました。主演の途中降板となれば、その影響はもっと大きくなります。

「女優、大原麗子はギラン・バレー再発時の影響と責任を考えて、長期拘束の作品には出演しない」

今、考えてみれば、当然のように思えますが、当時、彼女が女優として全盛期の頃、こんなことは誰も気づきませんでした。

1975年の闘病生活後は、ご本人もギラン・バレーのことは一切、語っていません。ですが、彼女は自身の中に「ギラン・バレー再発」という不安を、人知れず、静かに持ち続けていたと推察されます。そして、そのことが彼女の出演方針に結果として現れたのだと考えられます。

「ギラン・バレーが再発したときは、そのときのこと。そんなリスクを考えていてもしょうがないよ」と、楽観的というか、いいかげんに考える人もいるかもしれません。でも、彼女はそうしなかった。頑固なまでに生真面目で、責任感が強かった彼女にはそんなことはできなかったのですね。

悔やまれるのは、何故、当時、このことに気が付かなかったということ。もっと、感性を働かせば、わかったはずなのに。


1989年の大河ドラマ『春日局』。これは彼女が主演で期間も1年です。ギラン・バレー後の出演方針とは大きく違います。この年、彼女はこの作品1つに絞り、他の一切のドラマ・映画の仕事を断りました。あの時、世間は、『春日局』にかけた女優、大原麗子の意気込み、などという具合にしか、捉えていませんでしたね。

主演作に集中する為という理由も当然そうでしょうが、それよりも、ギラン・バレーの再発の不安がいつも付きまとい、大河ドラマ主演の責任の大きさを考えると、他の仕事をすることなど、はなっからあり得ないこと。このドラマに臨んだときの彼女の心境は、そう考えるのが、極、自然に思えてきます。

***

年譜を眺めながら、生前の彼女の姿を勝手に思い描く今日この頃ですが、
「あら、ホントだ。そういえばそうね。でも、そんなの、偶然よ!」と、
どこからか、夏代さんの声が聞こえるような気がします。


補足

大原麗子さんの出演作をまとめた年譜は以下のサイトからダウンロードできます(JPEG形式)。

ギラン・バレー発症前、1969年-1975年

ギラン・バレー発症後、1975年-1989年

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