あの頃の大原麗子さん(25)噂の寅次郎

昭和53年2月、私は恒彦さんと正式に離婚した。当時、私は女優を選んだとよく書かれた。でも、それはそうじゃないの。このままだと、彼や、お義母さんに迷惑をかけて、最後は取り返しがつかない関係になってしまう。だったらそうなる前にいさぎよく身を引こうって考えたのね。いさぎよさが私の信条でしたからね。

もう大昔の話で、長い月日が記憶を整理したのかもしれない。今になって、はっきり言えるのは、私は今でも恒彦さんが好きということ。家庭は安らぎの場であるべきだと思っていたけれど、私はそういうふうに作れなかったということ。昭和の時代、家庭より仕事や会社という男たちが多かったでしょ。根っこの部分では、それと大差ないって思う。要するに、私が男だったってことですね。

市川崑監督とは『獄門島』に続き、『火の鳥』もご一緒させていただいた。和気あいあいとした市川組の皆さんとの仕事は、離婚のことや、ギランバレー再発の不安を忘れさせてくれた。私もいつかこんな人たちと、自分で映画を作りたいって思い始めたのはあの頃だったかしら。

この年、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』への出演が決まった。浅丘さんのリリー役を観てから、私だったら、渥美さんとどんな風に絡み会えるのか考えることがあったので、マドンナ役がオファーされた時は、「来た!」っていう感じでしたね。

山田監督は徹底的にこだわる方と聞いていたけれど、それよりも何よりも、渥美さんや倍賞さんの芝居のレベルの高さに圧倒された。嬉しさの反面、正直なところ緊張の毎日で、恐れていたことが起きてしまった。

「とらや」の茶の間でみんなで食事をして帰るとき、転びそうになって三崎さんに抱きかかえられるシーンがあったでしょ。あれは演技ではなく、本当に転びそうになったのね。

あの時、薬でなんとか抑えていたギランバレーの症状が悪化してしまった。せっかく掴んだこの役を降りるなんて絶対できない。実は、足腰はフラフラで立っているのもつらかったんだけど、主治医の先生に相談して、強い薬を出してもらい、現場の皆さんには気づかれないようにしていた。

ここまででいいということはない。一切の妥協は許さず、難病だからなんていう言い訳は絶対に口に出さないと誓っていた。あの頃の私にとって、仕事は自己闘争という感じでしたね。

2009年8月3日、大原麗子さん永眠。合掌。  



『男はつらいよ 噂の寅次郎』1978年、松竹

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実のところ、このシーンが演出なのか、本当に転びそうになったのかは不明ですが、マドンナが茶の間で転びそうになることは少し突飛な感があり、やはり、ギランバレーの影響と考えるのが自然かと思います。

そう言えば、大原麗子さんは『あにき』でも倍賞千恵子さんと共演していたんですね。「桐子」と「さくら」のイメージがあまりにも違うので、両方とも倍賞千恵子さんが演じていることを忘れていました。

山田洋次監督が「渥美さんが天才であるっていうのはわかるだろうけど、倍賞千恵子さんも天才。普通の女性、普通のお母さんを演じたら右に出る人はいない」と語っていたことを思い出しました。

こんなレベルの高い方々に囲まれ、おまけにギランバレーの症状悪化。若干32歳だった大原麗子さんが「仕事は自己闘争」と表現した気持ち、お察しします。

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これはフィクションです(筆者)。

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