パパと呼ばないで ロケ地の楽しみ(12) 門前仲町

佃から相生橋を渡り、清澄通りをさらに進むと門前仲町に出ます。ここは古くから富岡八幡宮(通称、深川八幡)の門前町として発展してきました。勝鬨橋が開通して佃・月島から銀座側への往来が容易になったのが昭和15年。それまでは、佃・月島の住人がいわゆる繁華街へ行くというのは、清澄通りを都電...いえいえ、当時は東京市でしたから「市電」に乗って深川八幡界隈へ出るのが常だったようです。

私の祖父母一家は月島に住んでいました。戦前の頃の話、祖父母は信心深かったこともあってか、月に一度はこの深川の八幡様へお参りに行っていたと、母からよく聞かされました。

―― 祖父と祖母は八幡様の前で深々とお辞儀をし、大きく拍手してから長めのお祈りをする。祖父の背中にはまだ1歳の叔父。横っちょには見様見真似でお祈りをしている、3歳だった私の母と5歳の叔母。祖父はお祈りを終えると持参してきた千社札(せんしゃふだ)を長い竿を借りて高い天井に貼る。ちょうど昼めし時。参拝を終えた一家は、食事処を探して門前仲町へと向かう。当時、祖父母はまだ20代。赤ん坊を背中におぶった祖父の隣には、もう独りでしっかりと歩ける上の女の子。その後ろを、下の女の子の手を繋いだ祖母が追う。参拝に行ったときの食事はいつも浅利がたっぷりと乗っかった「深川めし」 ―― 下町の若夫婦一家が、たまのお出かけを楽しんでいる姿が目に浮かんできます。

祖父は私が幼少の頃に他界しました。祖父との思い出は僅かです。その朧げな記憶を辿ると、職人だった祖父がお膳の前に片膝を立てて座り、お茶碗からご飯を掻き込むように食べる姿が思い出されました。「江戸っ子は早めしでねーと。モタモタ食ってたら、飯が糞になっちめー!」祖父はいつもそのような事を言っていたとのこと。デジカメもスマホも無い時代、祖父や祖母の当時の様子を知る手掛かりは、わずかに残っている赤茶けたモノクロ写真と、母親が生前語っていた思い出話だけです。

こんな話を書いていると、タイムスリップして、20代の祖父母一家に会ってみたい気持ちがむくむくと湧いてきます。以前、戦前の話などカビ臭くてまっぴらだと、母親に言ったことが悔やまれます。

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さて、下の写真は『パパと呼ばないで』第15話、向田邦子脚本「とんだ人助け」のラストから。右京との結婚を断念したみち子が秋夫とともに歩いていたのが、門前仲町の商店街。みち子が結婚写真の見本を見ていた写真館のドアに「深川営業所」の表示、また大売り出しの赤い旗には、「仲町通り商店街」の文字が見えたので、ロケ地は門前仲町の商店街であることがわかります。

背後に写っていたお茶屋と履物店を手掛かりに、グーグル・ストーリービューで散策してみると...ありました、ありました。この履物店は「鈴木屋履物店」。ネットの情報によると、100年以上も続く老舗で、今のご主人は3代目、御年80とのこと。昔から、深川の芸者さん達は鈴木屋の下駄を愛用しているようです。早速、現地へ行ってみました。


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2021年1月17日、撮影。門前仲町2丁目3−5辺り。この商店街もひと頃の賑わいは無くなりました。鈴木屋さんのようなお店はいつまでも残って欲しいものですね。

下の写真は同じシーンで逆アングル。何と、みち子(真屋順子)の背後に写っていたマンションは健在!

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2021年1月17日、撮影。門前仲町2丁目3−5辺り。

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