あの頃の大原麗子さん(19) 女優の階段を駆け上がる

渡瀬さんと結婚した年 、昭和48年は女優としても思い出深い年だった。

大河ドラマ『勝海舟』の主演が恒彦さんのお兄さん、道彦(渡哲也)さんに決まって、いつだったか、道彦さんが、長崎の愛人、お久のキャストが未だと教えてくれた。道彦さんに倉本先生の台本を見せてもらっているうちに、私ならお久をどう演じるのか、なんて考えている自分に気づく。自分を殺しながらも、強いものを芯に持っている女性。絶対にやりたいって、倉本先生にお願いした。

その時は、ドラマ2本を掛け持ちして、とても忙しかったけれど、なんとか調整してもらって、長崎ロケに参加したのはその年の秋の終わり(注1)。倉本先生、道彦さん、坂本龍馬役の藤岡弘さんらと羽田から乗り込んだ飛行機は天候不順で大きく揺れていた。私の隣に座っていた倉本先生は真っ青で気分が悪そう。先生がリラックスできるように、冗談話をしたのを覚えている。

「怖いんでしょ、センセ。真っ青だもん」
「....」
「本当は私もちょっと怖いの。だけど先生心配しないで、私は絶対こういうことでは死なない運命なンです」
「そりゃ、どこの占いだい」
「占いじゃなくて、私の感っていうのかな。だから、もしものことがあっても、私一人はこの中で助かるの」
「飛行機が落ちたら、みんなお陀仏だよ」
「私、先生のこと守ってあげる。私は絶対助かるンだから、従って、先生も助かるわけよ。つまり、私たち二人だけが唯一の生存者ってことになるわけ」
「わかったようで、わからない話だね」
「救出されたら、記者会見やろうね」
「ハハハハー」
「私、記者たちに言っちゃうからね....ダメかと何度も絶望しましたけど、その都度、先生が守って下すったので、こうして生きてお目にかかれましたって。センセ、変に照れたりしないで、そうですって顔してウソつき通すのよ」

あの頃の私は、仕事でもプライベートでも乗っていて、変な自信っていうか 病気なんか絶対しないと思っていたし、まして、飛行機なんかが落っこちても、私は助かると思っていたのね。周りには、若さに溢れて、仕事に全力投球、恋をして、結婚をして、女優の階段を駆け上がる、大原麗子っていうイメージかな。でも、いい時ってずっと続かないって悟ったのはしばらくしてから。あの頃は、私がギランバレーにかかるなんて思ってもみなかった。

2009年8月3日、大原麗子さん永眠。合掌。

NHK大河ドラマ『勝海舟』より。

***

(注1)大原麗子さんが、当時 掛け持ちしていた2本のドラマとは、ご存知『雑居時代』と『さよなら・今日は』です。一方、NHKの資料によると、この大河ドラマの制作は「昭和48年11月の長崎・鹿児島ロケからスタート」とあります。すなわち、『雑居時代』で夏代さんを演じていた大原さんは、11月からは、加えて『勝海舟』の撮影にも参加していたわけです。

渡哲也さんとの長崎のシーンはかなり収録が進んでいましたが、主演の渡哲也さんが病気で、昭和49年の1月に途中降板したため、代役の松方弘樹さんとこの長崎のシーンも最初から撮り直しになったようです。その時期は『雑居時代』第24話「鬼千匹」の撮影時期と重なり、24話に大原さんが登場しないのは、この影響かと推察されます。

***

これはフィクションです(筆者)。

コメント

人気の投稿