あの頃の大原麗子さん(13) 15歳の記憶 

靖雄さんに渡辺プロの合宿に誘われたのは、中学3年の終わりだった。赤羽の家は、本当に居づらかったので、迷いなんか無かったわ。高校に進学するとすぐに、合宿に入った。

合宿所は、浜町にあった料亭の離れで、10人ぐらいで寝泊まりした。今思えば、その料亭はトンちゃんの実家だったのね。渡辺美佐さんも、たまに顔を出してくれた。「野獣会」って、誰かが名前を付けたらしいけど、実際は美佐さんが面倒をみていたタレント志望の集まりだった。

私と井上順ちゃんは高校1年生で、まだ子供扱い。六本木には連れて行ってくれなかった。私は、学校が終わると、毎日、田村町の飛行館スタジオへ向かった。

順ちゃんは、よくプレスリーの曲を歌ってたわね。
私は、演技の勉強。

私は、女優をやりたい。
そう思うようになったのは、あの頃だった。

しばらくして、渡辺プロが製作する映画に、端役での出演が決まった。
糸魚川のロケに行ったのは、梅雨が明けた頃。初めてのロケだった。

セリフが貰えたのは、それが初めて。
中尾ミエさんの友人の役で、その他大勢のひとりだった。
初めてのセリフは、今でも覚えている。

友人B、「それにさ、行き先のある家出だもんね」

あの時は、演技なんていうことも、よくわからなかった。ただ、監督の言うとおりに、夢中で声に出した。

素直に明るく振る舞うことを心がけていた。詩子さんが、「あの頃のあんたは、生意気だったもんね」って、言ってたけど、礼儀作法だけはわきまえていたつもり。そして、何よりも自分に誠実でいたいと思っていた。それは、今も変わらない。


1962年、東宝、映画『夢で逢いましょ』

***

いつだったか、弟が訪ねてきたときのことを思い出した。

「浅丘さんから電話があったよ」
「....」
「もう、あんな電話をかけるのはやめてくれ! 頼むから」
「マミ...いったい何を言っているの?」

あの子がなぜ、あんなに怒っていたのか、よくわからなかった。

意識が薄くなっていくのがわかる。痛みはもう感じない。
私は今まで何をしてきたのか、よく思い出せない。
同じ光景しか、思い出せない。
それは、15歳の私が田村町のスタジオに入って行く光景。
そして、中に入っていくと、いくつもの見慣れた顔が、笑いながらこちらを振り向いてくれるの。

あの時、私は、
女優になりたかったんだ。

(2009年8月3日、大原麗子さん永眠)

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