あの頃の大原麗子さん(9) 32歳、自身を語る

最近また、大原麗子さんの人生を題材にしたドラマの制作が話題になりましたね。前田忠明著『炎のように』をもとに、ギラン・バレーとの闘病、離婚などの話をドラマにするようです。

その本は彼女が残したスクラップ・ブックや身内、知人の思い出ばなし、前田忠明氏が彼女から聞いたと云っている話などをもとにしています。話の真偽はよくわかりませんが、一つ確実に云えることは大原麗子さんご自身がその本の制作に関与していないということです。そのため、彼女のスクラップ・ブックなどの豊富な情報がありながら、その本からは彼女の魂がいまひとつ伝わってこない。そう感じているのは、私だけでしょうか。

まあ、それはそれとして、多くの大原麗子ファンにとっては、その本より、彼女自身が直接、発した言葉の方が、もっと価値あるものではないかと思っています。

大原麗子さんは30代、40代女優として全盛期の頃は、雑誌などのインタビューにわりと頻繁に登場していました。その中でも、女性誌『MORE』1979年1月号掲載のインタビュー記事はファンにとって貴重な記録です。1978年11月、彼女が32歳の誕生日を迎えたころのインタビュー。同じ年の2月、渡瀬氏と離婚しています。一方、仕事はすこぶる順調で確実に視聴率をとり、一流女優としての地位を固めつつあった時期でした。

以下は、雑誌に掲載された彼女のコメントです。幼少期のこと、自己の性格、ギランバレー、女優という仕事、離婚、人生観などについて語っています。『炎のように』にも同テーマの話が登場しますが、そのようなことについては、彼女自身が34年前に自分の言葉で既に語っていたんですね。

この雑誌の記者が彼女の言葉を忠実に記述してくれたこともあり、活字になっても、その一言一言から彼女の性格や人柄がストレートに伝わってきます。大原麗子ファンにはぜひとも読んでいただきたい彼女が32歳のときのメッセージです。
幼少期のこと

「幼稚園ぐらいの時は、すごくきかなかった
らしいですね。3つ違いの弟がいますが、私
の方が男の子みたいで、弟の方がやさしいん
です。よくいじめたり、泣かしたりしていま
した。わりと活発な少女でしたね。

印象的なことといえば、何か買ってほしい時
に、うちの弟は地べたの汚いところにでも寝
ちゃうんですよね。私はちょっと原っぱに行
ったりして、きれいなところでないと寝ない
の。お洋服が汚れちゃうからね。それから、
私、3つぐらいまでおっぱい飲んでいたんで
すね。弟が生まれるまで、ずっとおっぱい飲
んでいたんです。それで、弟が生まれる時に
おばあちゃんのところへ預けられたんですけ
ど、当時はお肉が好きだったんで、お肉があ
るから食べなさいといわれても、全然たべな
いんです。”お母ちゃんのね、まっこい
おっぱいのみたいよ”って泣くんですって。
娠すると乳首が黒くなるでしょう。そこで、
お母ちゃんの、まっこい(真っ黒い)おっぱい
がのみたい”と泣いたって......。

私、東京生まれの東京育ちなんです。小学
校の時、父と母が離婚しましたのね。だから
私、小学校2年ぐらいの時から多摩墓地の家
へ行ったり、赤羽の母の実家に移ったりして
ました。悲しかったのは、学校の友達なんか
の家に行くと、家族でご飯食べている、そう
いうのが、とても羨ましかったですね。それ
から弟と離れたのが辛かったしね。弟もたま
にお母さんと私が住んでいるところへ来て、
2、3日来て帰るとき、電車に乗るとき送っ
ていくと泣くんですね、3人でね。お母さん
と私と3人で泣いたりするんです」

「そのころ、お母さんとふたりになってから
は、わりと親孝行だったみたいなんですね、ご飯つ
くって待っていたりしてたみたいです。今も
お母さんは赤羽に住んでいます。互いに往っ
たり来たりして......。

自己の性格

だから、そんな体験をしたせいか、異性に
対して父とか兄とか、そういうふうに求めちゃ
うんですね。ちょっと、ファザー・コンプレッ
クスじゃないかと......。

異性は毅然とした人、強い人が好きですね。
私が接する人たちは、皆仕事を持っている、
仕事に対するプライドを持っている素敵な人
が多いですね。それでいて、繊細なんですね。
繊細な人、好きですね。男でも女でも。とて
も傷つきやすかったりね。でも毅然としてい
るという......」

「さそり座の性格、当たってますね。運が強い
んですね。私、病気なんかも治したから、当
たっているかな、と思っています。それに好き
嫌いというか、生理的にパッと合う人だとと
ても好きになるし、信じたらトコトンまでと
いう感じね。

血液型はABなんです。分裂型っていわれ
るけど、本当に矛盾しているのね。躁うつ的
なのね。1、2年に1回ぐらい、うつ病にな
ったりするんです。抗うつ剤を飲んだことも
あります。落ち込んじゃうと口がきけないん
ですね。どんな親しい人とでも、しゃべれな
くなっちゃう。辛いですよね。死にたくなっ
ちゃうんですね。希望がなくなっちゃうんで
す。貝みたいに自分の中に閉じ込もっちゃう
んですね。病気してからですね、それは......。

でも、躁状態になるとまたよくしゃべるんで
すよね。自分でもびっくりするぐらい言葉が
でてきちゃうんです。

よく、長所と短所って聞かれるんですけど、
そんなことで矛盾してるんですよね、私。
長所というのは自分ではよくわからない。羽柴
さん、長所って何ですか、私の」

ここで、彼女はマネージャーの羽柴さ
んに助けを求めた。「いさぎよいとこ
ろがあるね、女の人に珍しいところで
すね」との答え。

「でも、こだわるのね、こだわったりもする。
決めちゃったらいさぎいい、自分で決めた
ら......。短所は気が短いところかしら。
ッパッとやらないと駄目というか。でもじっ
くり考える時があるし、決めちゃうと早いの
ね、決まるまでが長いんですね。たとえば、
ちょっと休みがあるから外国へ行こうとなる
と、その日にパッと支度して行ったり、そう
いうところは女らしくないのね」

ギラン・バレーについて

「ギラン・バレーって人の名前なんですよ
ね、病気を発見した。昔は死んでいた病気で
すって。50年か前にそういう名前がついたん
ですね。麻ひが上がってきて死んじゃった病気
なんですね。私は手と足だけでしたけれど、
っと胸のところまで上がってくると死んじゃう。
だから、手おくれになっちゃうと、のどのと
ころに穴をあけて、呼吸を助けるんですって。
私は、軽かったんですね、長い人は8年ぐら
い装具をつけたり、松葉杖をついたりとか...
知っている病気じゃなかったですからね。
識がある病気なら少しは安心なんですが、全
然わからなくて、すごい勉強したんです。入
院している時に、その病気について......。毎
日、いろんな先生がいらっしゃるんですね、外
診で......。そんな時、質問したりして、それ
で案外詳しくなって。だから治ったあとでも、
お手紙を頂くんです。自分もそういう病気じ
ゃないかという、普通の方から。私、先生じ
ゃないから困るんですけどね、一応、返事書い
たりしますけどね。

入院中は、お医者さんが治るとおっしゃっ
たけど、治らないのを治るとおっしゃってい
るのかなあ、とか思いましたね。もし、治ら
なかったら、家族に迷惑をかけるとか、生き
ていない方がいいんじゃないかとかね、いろ
いろ思いましたね。飛び降りたら、また迷惑
かけるだろうからとかね、いろいろ考えま
した。今ではほとんど治りました、完全では
ないけどね。ちょっとしびれみたいなものが
残っているんですね。手とか足とか、力がな
いんです。だから......、重いものを持つとふ
るえちゃうんですね。ヤカンなんかお湯が入
っているとブルブルふるえちゃうんです。

私、20歳ぐらいの時から、25歳をすぎたら
女を演じる女優になりたいなと思っていたの。
で、そういう役とのめぐり会いなんかがあっ
たりして、そういうのはラッキーでしたけど
ね。病気したときでしたね、いろいろと思ったのは
ね。絶対だということはないっていうことも。
気なんか絶対しないと思っていたし、飛行機
が落っこちても、私は助かると思っていまし
たし......。それから、いろいろ反省もしまし
た。治ったらこういう人間になりたいとか、
病気は治っても、なかなか治らないですね、それは......。

ともかく、病気したことはいい経験でした
ね。共同生活もしたし、いろいろ知らない世
界を見ましたでしょう。私にとっては、その
時は辛かったけど、今になって思うといい経
験だったと思いますね。人の思いやりの有難
さとか、温かさとか、そういうものを感じた
し、普通なにげなく見すごしてしまうことな
んか、気がついたりすることがたくさんあり
ました」

女優という仕事

「同性から好かれるのは嬉しいですね。
同性というのは厳しいでしょう。同性を見る
目というのは厳しい。自分も女だから、女の
人を見る目も厳しい。そういう意味では嬉し
いですね。

女優の仕事というのは、なんというのかな
あ、さらけ出しているでしょう。演技をして
いても自分自身が出てしまうんですよね。
い面も悪い面も......。その人の持っている人
間性みたいなものが出てしまいますね、役の
形を借りながら。だから、そういう意味では
自分をさらけ出している、見られているとい
う意味で、怖いですね。中が見られている、
外見じゃなくてね。中が見られているという
のでは怖いですね。たとえば、ある台詞が与
えられたら、その時どういうアクション(動
き)をするか、自分の発想でリアクションす
るわけですよね。だから、そういう意味では
やはり私の性格とかがやはり出てしまいますよね。

今まで演じた役でわりと好きだったのは、
『勝海舟』(NHKの大河ドラマ)で演じたお久
ですね。自分を殺しながらも、強いものを芯
に持っているんですよね。それに今年のはじ
め頃に演った『命の絶唱』(NTVテレビ)のヒ
ロイン、明子。教師なんですけど、やはり、
とても強い自分を持っていて、素敵な生き方
をした女性なんですね。実話だったんです。
あれは、フランスの......。あの役は好きでし
たね、こんなふうに生きられたら、素敵だな
あと思って......。

野獣会の時代

女優は目指そうと思って目指したわけじゃ
ないんです。なんとなく好きで......。小学生ぐ
らいから、学芸会に出たりして、『パンドラ
の箱』なんて、男の子の役に弟の半ズボンを
借りてやったのを覚えています。

デビューは(昭和)39年だったかしら。NHKの『幸
福試験』というドラマでした。新人オ
ーディションというのを受けましてね。受か
って4年間NHKと番組契約して、そのあと
東映から話があって、それで東映に5、6年
いましたかしら。よく、”かつての、六本木族”
っていわれるんですけど、あれは六本木族と
いうキャッチフレーズで渡辺プロがタレント
飼育じゃないけれども、そういうことを目的に
したものだったんですね。”六本木族”ってい
うキャッチフレーズで出した方が効果がある
というか、演出されたものだったんですね、
あくまで。野獣会と名づけられて、田辺靖雄
さんとか、井上順ちゃん、峰岸徹さんとかい
ま芸能界にいる方でもね、何かやりたいとい
う人の集まりだった。タレントばかりじゃな
くて、デザイナーになりたい人とか、そうい
う人もいたんですよ。私は女優をやりたい、
順ちゃんはやはり歌手をやりたいといって、
よくプレスリーの歌を練習していましたね。
時に集まって、演技勉強でもないけど、そう
いうのがありましてね。飛行館スタジオ、今、
飛行館ビルってなくなってしまいましたけど、
田村町のところにあった、古いビルで......。
こでやっていたんです。野獣会のメンバーの
時は、私、六本木にいったことないんです。
びにいったことないのあのころ......。小さか
ったし、16、17歳ぐらいですからね。順ちゃ
んと私が一番最年少で......。連れて行ってく
れなかったんです、上の人たちは......。あの
ころは行かなかった。そのあとは行きました
けどね。”レオス”というお店がありましてね、
そのころよくそこに溜まって、ご飯たべるとこ
ろなんですけどね、そこへ行くといろいろな知
っている人が、ご飯たべに行ったりなんかし
ていました。野獣会が解散したあとですね。
田辺靖雄さんが渡辺プロに入っちゃたり、
トンちゃん(峰岸徹)は東宝に入ってバラバラ
になっちゃったんです。それで自然消滅みた
いになくなっちゃたんですね。

私はコマーシャルなんかにちょっと出てい
ました。当時、『われら十代』というトーク
番組があったんです。意見をいう番組で、何か
テーマがあって、しゃべったんですね。十代の
人たちばかり何十人か。その時のディレクタ
ーが、新人オーディションがあるから受けて
みないかといわれて、受けたところ受かった
んです。それでデビューしたのが前にいった
『幸福試験』だったんです」

人生の岐路、渡瀬氏との離婚

「人生にいろいろな岐路があるけれど、私にと
って一番大きな岐路は、やはり離婚ですね。
かなり長く考えていましたからね」

「長くそういうふうに離婚した方がお互いの
ためにいいんじゃないかと考えていましたし、
例えばインタビューの時でも、必ず主人(
婚した渡瀬恒彦さん)のことを聞かれるわけで
すね。その時、いろいろ答えながら、必ず偽
善的な気がしていたんですね。ハッピーな状
態でないのにそのようにいわなきゃならない
とか、”芸能界の人は離婚が多いけれど、大原
さんはそんなことをなさる方じゃない”と、
んなふうに主婦のかたたちが、記事がでるた
びにおっしゃるんですね。ああ、そんなふうに
思われているのか、と重荷だったんですね。
偽善的な感じがしてね。

そして、私、離婚した時、”女優を選んだ”
とよく書かれたのね。それはそうじゃないん
ですね。だってそれだったら結婚する時に女
優やっていたんだし、それで結婚したわけで
すから、そういうことはないのね。比較にな
らないものだと思うの。仕事と家庭生活と違
う、選ぶとか選ばないとかと違う。男の人
だって仕事をしていて、家庭があるわけでし
ょう。どっちを選ぶのという話じゃないもの
ね。やはり、家庭は安らぎの場だと思ってい
たし、私がそういうふうにつくれなかったか
らね、妻としていたらなかった、だからそうい
う意味では渡瀬さんにも悪いなあと思ってい
たし、正直に生きていった方が、お互いにい
いんじゃないかと......。自分を騙すのは嫌い
ですね。”どうして離婚を......”とよく聞か
れましたが、やはり人は納得したいんでしょ
うね。納得させてほしいみたいなのがあるん
でしょうね。でも、理由なんていうと、一言
でいえるものじゃないんですね。自分の一番
大事なこととか、そういうことは話さなくて
いいんじゃないかという気がするんですね。
彼とは別に喧嘩別れしたわけじゃないから、
テレビ局で会ったりもするし、電話で話した
りもするし、何か会うとなつかしい感じです
ね。局なんかで話したりすると、まわりの
人が不思議そうな顔をしてみたりするけど、
離婚して、顔をそむけあう関係って嫌ですも
の。何か仕事をして、すごくよかった時なん
て、やはり自分のことのように嬉しいですね」

 女優の仕事を大事にしたい、過程が財産

「何か歌番組に出たりというのは、震えちゃ
いますもの。上がっちゃいます。内輪パーティ
なんかだったら平気なんですね。人が見てい
るとどうも......。自意識過剰ね、歌なんか歌
って......。歌のお話はまだあるんですけどね、
時間があまりないんですよね、練習したりす
る時間が。やるとしたら、企画みたいなところ
から、入れたらやってみたいと思います。

今は、女優の仕事を大事にしたいですね、
それだけというのも寂しいけれど......。これ
からぜひ演ってみたいと思っているのは、福
永武彦さんの『海市』。あれは前からやりた
いなと......。なかなか実現しないですね、映
画化するのが、難しいですね。安見子という女
の人、とても魅力的なんですね。若くないと
できないです。今はもう駄目かもしれない。
絵になるんですよね。きれいですね」

「1月からは自由業を主人公にしたドラマに
出ます。プロデューサーになるか、ディスク
ジョッキーのパーソナリティをやるか、まだ
わからないんですけれども、そういう役をや
ります。近藤正臣さんと共演した『愛がわた
しを』(TBSテレビ)の週刊誌記者の役も楽し
かったです。アクティブな役でしょう。私、
どっちかというと受け身の役のほうが多かったで
すからね。行動派の女性って気持ちがいいで
す。女優も一種共通しているんですね。仕事
を持っている孤独さみたいなもの、ありますでしょう。

仕事を持つということは、女、男関係ない
と思いますね。妥協がゆるされないし、女だか
らここまででいいということはないでしょう。
仕事は、自己闘争という感じですね。自分と
の闘いというとオーバーになりますけどね。
あまりオーバーに構えるというのは好きじゃ
ないけども、自分との闘いなんでしょうね。
仕事を通して、自分を見ていくみたいな感じ
ですね。そういう過程でね、過程が財産なの
ね。スタッフの人から触発されるというのは
うれしいですね。相手のかたが一生懸命やる、
私も一生懸命やる、仕事をしているときの喜び
というのはそういうことですね。それから
ああ、この仕事をやってよかったと思うのは、
ほめられたときですね。たとえば、あれ見て
ますって、会った人に声かけられたり、すご
く楽しみですといってもらえると、この仕事
をやってよかったと思いますね」

「私、流されてしまうというのは嫌なんです
ね。そういう役もあまり好きでないですね。
運命に流されてしまうみたいな。あらがうの
でもないけれど、さりげなく生きてるみた
いなのがいいですね。やっぱり生きていない
と駄目なんですよね、人物が......。生きてい
ないと駄目です。台詞なんかでも生きた台詞
が好きですね」

「特別、信じているものってないけれど、自分
の神様みたいな人が私の中にいますね。都合
がいいものだから、何か困ったことがあると
”助けてください”という感じ。ママなんかとよ
くお話する時ありますね。辛いときとか、
夢になんかでてきてくれる。(ママとはプロ
デューサー・石井ふく子さんのお母さん)仏教な
んかはわりと好きですけどね。仏教というの
は、あきらめからきているとこがあるでしょ
う、無常とか......。世の中のことは、常に一
定していない、 動いているという意味でも...
...。あまり固執しちゃいけないんですね、物
や人に.....。動いていく、壊れていくもので
すから......」

***

いかがでしたか?

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