あの頃の大原麗子さん(7) 『冬物語』と『勝海舟』


うだるような暑さの中、大原麗子さんの訃報に耳を疑ったのは、はや3年前の2009年8月6日。
8月の声を聞くと、大原麗子さんが亡くなったことに、しばらく呆然としていた、真夏の記憶が蘇ります。

3年経った今、その出来事も想い出にかわりつつあり、徐々に薄れていく記憶の中、東京・青山葬儀所で催された「お別れの会」での、浅丘ルリ子さんの弔辞が、妙に印象に残ります。

大原麗子さんとはドラマでの共演がきっかけで交友がはじまったこと。
浅丘ルリ子さんは大原さんを妹のように思っていたこと。
晩年、躁うつ病によるものか、大原麗子さんは親しかった周囲の人たちに、深夜、電話で長々と愚痴を言ったり、罵倒を浴びせていたとのこと。
世田谷・岡本の自宅で大原さんが手首を骨折したとき、浅丘さんが食事を作り、駆けつけたこと。
大原さんは玄関で浅丘さんの顔を見るなり、「なんで浅丘さんすぐに来てくれなかったの。浅丘さんが来てくれるのずっと待ってたんだから」と、飛びついてきたこと。そして、2人で尻餅をつき、浅丘さんは、怒って泣いている大原さんの肩を抱いていたこと。

大原麗子さんの特集番組で、彼女の晩年の状況が紹介されたのは、かなり経ってからのことでした。
浅丘さんの弔辞は、今になって、その意味がやっとわかった気がします。

ところで、映画やドラマの1シーンを観ているかのような、浅丘ルリ子さんの胸が熱くなる弔辞もさる事ながら、そもそも、「大原麗子さんと浅丘ルリ子さんはそんなに親しかったの?」と思う人が多かったのではないでしょうか。

小生も、浅丘ルリ子さんが弔辞を述べられたときは、「おやっ」と思いました。40年ほど前、お二人が日テレのドラマで、共演されていたことは覚えていますが、その時からずっと、それ程までに親しかったとは知りませんでした。



当時、お二人が共演したドラマは、

1972年、『3丁目4番地』
1972-73年、『冬物語』
1973-74年、『さよなら、今日は』

この時期、大原麗子さんは

1973-74年、『雑居時代』、栗山夏代役
1974年、NHK大河、『勝海舟』、お久役

と、女優としてのターニングポイントを迎えます。

今さらながら、夏代さんの魅力を語る必要もありませんが、『勝海舟』、お久役で、しっとりと深みのある女性を演じきった大原さんには、当時、目を見張るものがあったと記憶しています。

最近、『冬物語』がCSで再放送され、この時期の浅丘ルリ子さんを見ていて、大原さんが浅丘さんについて語っていたという以下のフレーズが思い出されました。

「生まれて初めて女優というものを見た気持ちになった。演技や台詞のうまさは当然のこと、何より、すーと立っているだけで、『すごい!』と思わせ、『美しい!』と思わせるの。こういう人が女優っていうんだなと思ったわ」

浅丘ルリ子さんは大原麗子さんが姉のように慕った友人というだけでなく、彼女が女優としてターニングポイントを迎えた時期に、一番、影響を与えた存在だったんですね。25才の若き日の大原麗子さんが、憧れて、目標にした女優といってもいいかもしれません。

大原さんのこのコメントは、特に、『冬物語』での浅丘ルリ子さんの演技を指している気がします。

『冬物語』の宗方信子は、引きの演技が要求される「耐える女性」の典型。勝手な想像ですが、同じく耐える女性、『勝海舟』のお久を演じたとき、大原麗子さんは、『冬物語』での浅丘ルリ子さんの引きの演技をかなり参考にしていたのではないかと思われます。

40年も前のビデオ撮りのドラマ、『冬物語』が、また観れることに、感激しています。
本日、7月31日、これから、第2話を観ます。


補足
浅丘ルリ子さんは弔辞の冒頭で、大原麗子さんとの交友が始まったのは、「33年ほど前のドラマでの共演」がきっかけと述べています。そのドラマは時期を考えると、1972年、『3丁目4番地』だと思われます。2009年の33年前とは1976年。ちょっと計算が合いませんが、浅丘ルリ子さんの記憶違いでしょうか。

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