あの頃の大原麗子さん(15) 撮影所とゴーゴー喫茶 

六本木の「レオス」って、いつの間にか無くなちゃたけど、やっぱりあそこは、忘れられない場所。飯倉片町へ向かう途中にあった、ハムとかチーズとか売っていた店で、2階で食事ができたんですね。都電の停留所の真ん前、ほら、「ドンキホーテ」とか言うんですか、屋上に遊園地ができるって話題になってましたでしょ。昔、あそこに「レオス」があったんですよ。

「野獣会」の人たちから、あの店は芸能界志望の人たちが溜まる場所って聞いて、結構、行っていましたよ。行けば何かチャンスがあると思ったんですね。渋沢詩子さんと知り合ったのもあの店。詩子さんも常連だと聞いてたんだけど、ある日「レオス」に行くと、いるじゃない、本人が。それで、思わず声をかけたの。

「あんたがウタコちゃん?」
「うん、そうだけど」
「あーそう。あたしね、いろんな人にウタコちゃんに似てるって言われるの」
「どなた?」
「レイコっていいます。去年、映画にちょっと出たの。女優になりたいんです」
「面白い子ねー、でも、可愛いわ。女優になりたいって、いくつなの?」
「16、ウタコちゃんは?」
「はっ、はっはー、こう見えても、わたしは、もう大人なんだけど」
「すいません、先輩に」
「いいのよ、ねえ、何か食べない?」

あの出会いがきっかけで、詩子さんの家に居候させてもらったのね。1年ぐらいでしたっけね。それから彼女の紹介でコマーシャルなんかに出ていましたね。

『われら十代』というNHKのトーク番組があったんです。意見をいう番組で、何かテーマがあって、しゃべったんですね。十代の人たちばかり何十人か。わたしも、言いたいこと言っているうちに終わっちゃて、あー、こんなもんか、なんて思いましたよ。

その時のディレクターが、新人オーディションがあるから受けてみないかといわれて、受けたところ受かったんです。それがドラマ『幸福試験』。わたしのデビュー作っていうことになってるんだけど、15歳の時のナベプロの映画が本当のデビュー作。そんなの、知ってますって?

東映さんから映画出演の話があったのは、しばらくしてから。東映は任侠もの路線に行ってましてね、バンプ女優なんていう言葉があったぐらいで、男うけがして頭が弱そうな感じの人を探していたんでしょうね。わたしも、そんなふうに見られてたのかと思うと頭に来ちゃうけど、その時は、映画に出られれば、そんな事どうでもよかったのね。

東映での最初の仕事は、村山新治監督の映画。佐久間良子さんの従姉妹役でしたね。相手は佐久間良子さんでしょ、緊張しましたよ。わたしみたいな新人が太刀打ちできるったら、体を張って、真剣さをアピールすることぐらい。佐久間さんに殴られるシーンで、わたし、佐久間さんにフリじゃなくて、本当に殴ってくださいってお願いしたのね。まったく生意気なヤツよね。

梅宮辰夫さんと初共演したのは、同じ村山監督の『いろ』っていう映画。梅宮さん演じるジゴロに遊ばれる女のひとりなんですけど、最後に、梅宮さんをブスッとナイフで刺しちゃう役。ヌードシーンも要求されましたけどね、撮影当日になって、どうしてもできません!って、駄々こねて断っちゃった。でも、後で観たら、うまく繋いでヌードに見えるようにしてるじゃない。みなさん、わがまま言ってごめんなさいね。ヌードはお断りだけど、どんな要求にも完璧に答えられる女優になりたいって、いつも心がけていたのも確か。わたしって、変わってる?こだわるのよね、何にでも。妥協するのが嫌なの。

それから東映では、がむしゃらに仕事しましたよ。2年で20本よ、信じられる?村山監督のが一番多かったんじゃないかしら。余裕なんてありませんよ。あの頃は、監督の言うとおりに、夢中で動きまわっていただけ。毎朝5時に起きて、ずーと撮影。終わってからは、みんなでゴーゴー喫茶なんかに繰り出すの。毎晩のように踊りまくっていたわ。そんなことができたなんて今では信じられないけど、あれが、青春っていうのよね...楽しかった。

2009年8月3日、大原麗子さん永眠。合掌。 


1965年、東映『いろ』、村山新治監督。主演、梅宮辰夫


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